ほいほいそうこ

70年代生まれ、アダルトチルドレン。メンタルこどものまま中年になりました

【諦め癖】自分を接待する【がっかりを上書きする】

こんばんは、まぬえらです。

先日友人達と出かけた時に気づいたことがあり、投稿しようと思いました。

早速ですが、私は諦めるのが早いです。希望通り・期待通りに行かなくても「仕方ない、こういうこともある」「自分ではコントロールできないことだから」と自分に言い聞かせます。それはホント無意識に、自然な流れでそういう思考に至るのです。

例えば誰かと映画を見に行ったとか、食事に行ったとかそんな時、その映画が全然面白くなかった理、レストランが期待外れだったりすると、居心地の悪さを覚えます。そしてなんだか自分が悪いような気がしてくるのです。
そして、なんとかその「つまらなかった」とか「美味しくなかった」などのネガティブな感想を少しでもよくしようと努力をします。つまらない中でもよかった点とか、美味しくなかったけどいい経験になったとか、そういうことです。
その努力自体を否定するつもりはありませんが、疲れるし自分が悪いのかもという自己卑下が入っているので、失敗してはいけないという思いが強くなってしまいます。結果、冒険ができません。

一人の時はまだマシです。自分が我慢すればいいだけなので、「仕方ない、こういうこともある」で自分を宥めて終わりにできます。ですがこの前友人たちと出かけた時は違いました。
友人の一人は、私とは真逆で諦めが悪い、欲しいものは手に入れるタイプの人でした。この人はバックグラウンド自体も一般的には恵まれている方なので、それが当たり前の人生だったのだと思います。お金たくさん持ってるし...

まず最初に出かけた場所が期待はずれのカフェでした。内装も味もいまいちで、長いしたくなくすぐに出ました。その時の私はそのお店を話のネタにしてなんとかその場がネガティブな空気にならないようにしました。その時の彼女は、これからどうするかと考えて、新しくできた店があるから見てみようというので、みんなでいくことにしました。

結果、そこもレビューほど良くなく対して何も見ずに店を出ました。ここでも私は今日はツイてないねーなど場を和ませることに終始神経を注いでいました。正直なところ、面白くないしさっさと帰りたかったです。その間彼女は他の可能性を探して、食事時だし、新しくできたここに行ってみようと別の提案をしました。特に検討を重ねたわけでもなく、写真の見た目で決めたようでした。

そこは馴染みのないエリアでしたので、行くまでに迷ったりして、私は今日はもう適当なところで解散だな、と思っていました。ですが結果として、その店は大当たりでした。それまでのガッカリ感があったので、期待のハードルが低かったのかもしれませんが、とにかくこれまでのネガティブな思いは見事に上書きされました。

そこで私が思ったことは、自分はすぐに諦めていたな、ということでした。1回の期待はずれが全ての結果で、それは自分にはどうしようもないから仕方ないんだ。そんなにガッカリするな、いい経験になったでしょ。次はこの経験を生かして反省したものでした。
気づいたのは、そんな風にいつも考えていたんだということでした。そういう風に育てられたから。
聞き分けがよく、親を困らせず親を喜ばせ、安心させるように振る舞ってきたので、そういう癖がついてしまったのだと思います。

もちろん毎回、上書きできるとは限りませんが、もう少し粘ってもいいんじゃないかと思うようになりました。
その友人は基本的には金で解決するタイプの人で、なんでもやりたいことをやって他人も金で集める(奢るとかパーティ開くとかして)人だと思っていて、多少軽蔑していた節がありますが、この欲しいものを手に入れる努力は賞賛に値します。
自分と正反対の人と付き合うことのメリットってこういうことなんだなと実感もしました。

この事があった翌週、私は一人で気になっていた展覧会に行ってきました。観光地で年末なので混んでいるだろうと想定していましたが、想定以上の混み具合でした。傾向として3時間後くらいには空いてくるのはわかっていたのですが、これまでの自分ならばその3時間を待つことはできず、展覧会は諦め、その分どこかで高めの食事でもして帰って鬱々とするパターンでした。
でも今回はちょっと違う選択をしてみました。おそらく空いてくるであろう時間まで、別のことをして(幸い観光地なので見るところはたくさんある)、適当な時間に戻ってみて入れそうなら入ってみるというプランに変更しました。その結果、時間潰しだったはずの久しぶりに行った場所も、途中で入ったカフェも、元々の目的の展覧会も全て楽しむ事ができました。

初めての経験でした。初めて得る達成感でした。これまでは人と一緒に何かに根気強く並んだりして、結果目的を達成することはあっても、人につられて渋々並ぶという状況でしたし、達成感よりも安堵感の方が大きかった気がします。自分の選択で、自分のために物事を簡単に諦めないことってこんなに気分がいいことなのですね。粘っても手に入らないことも多々あるのでしょうが、自分のためにそこまで粘ったという過程も大事な気がします。おそらくこれまでもちょくちょく小さいことで勇気を出したり、努力して欲しいものを手に入れたことはあるのでしょうが、意識していなかったのであまり記憶に残っていません。勿体ないことをしました。

得られた結果を少しでも良く捉えて、満足することと、やりたいこと欲しいものをなんとしてでも手に入れる努力を惜しまないこと、どちらも自在に使えるようになると、人生楽しくなるのでしょう。

【虚栄心が強い人】苦手な人がずっと苦手なままなこともある【嫉妬心の投影】

こんばんは、まぬえらです。

唐突ですが、苦手な人がいます。嫌いと言ってもいいかもしれない、とにかくいちいち自分をイラッとさせる相手です。自分でも不思議で彼女と会ってから、なんでこんなにこの人にネガティブな感情を抱くんだろうと、自問自答しています。

今のところわかったのは、彼女の言動と自分の思考と両方に原因があるということです。

まず、この方とは仕事で出会ったのですが、最初にいただいたメッセージがおかしかった。どう返信したものか小一時間考えたくらいです。どうおかしいのかというと、名乗りはするし所属も書いてあるがどういう立場でこのメールの目的はなんなのかは書いていなかったです。連絡をもらったこちらの感想としては、〇〇社の誰某さんね、へぇー。だけでした。そして謎の上から目線、保護者視点のような締めでした。「わからない事があったらなんでも訊いてくださいね!」だそうです。こちらからしたら、お前が誰でどんな事ができなんで連絡してきたのかも分からないのに、なんでも訊いてって言われてもねー、って感じだったのです。

そしてここからは自分の癖なんですが、そこでジャッジせずに相手のことを聞いてしまってもよかったんですよね。「あなた誰?なんで連絡してきたの?どうしたいの?」ここまで直接的じゃなくても、そうしてもよかった。でもこの時の私は、最初の連絡で目的も書かずに、教えてあげるって態度でくる人はやばい人だ、浅い関わりにしとこ、って思って特に聞かなかったんです。そこで最初の彼女に対するイメージを作ってしまったのかもしれません。

実際に会って挨拶した後もこの人は変な感じでした。私はここで聞いたんですよ、彼女の立場とかどういう責任を負ってここにいるのかとかを。その時の彼女の反応が、「いえいえ私フツーの人ですよ特別じゃないです!」って言ってました。ここでも自分は混乱しました、「フツーの人かどうか?そんなこと聞いてないけど。。。?」何か自分が投げた質問が彼女の頭の中で別の質問に変換されたようでした。分からないまま一緒にやっていくの嫌だし、仕方ないので質問を細切れにしてなんとか2つほどは答えが得られました。
ここで彼女に対するジャッジは面倒くさい人、勝手に脳内変換、自意識過剰、コミュニケーション技術低め、です。

実際に一緒にやるプロジェクトに入ってからもこの印象は変わりません。大抵はプロジェクトの最初って自己紹介をしていくと思うんですけど、この人の自己紹介はある意味すごかったです。キラキラしていました。色々な肩書き、経歴に太い実家、そして多趣味で沢山の海外渡航歴。もう、すごーい以外なにももいう事がない。Instagramを具現化したような自己紹介でした。

そして業務では、ミーティング中や業務中に分からない事があっったときに、「あれ?なんで?どうしてこうなるの?全然分からない?」大きな声の独り言をよく言っていました。プロジェクトチームのみんなスルー。毎度そんな感じなので、ミーティング中には彼女が理解できているかプロジェクトリーダーが確認を取ったりするのですが、その時に分かったのか分からなかったのかはっきり言わない。リーダー以外の人が聞いたことも自分が聞いたこともあったのですが、めっちゃ膨れツラをして「あ、大丈夫です」とそっぽを向いていました。
この時点での印象は、上記に加えて劣等意識が強い自己評価が低い人

ここで自分自身のことですが、実は彼女に嫉妬心を持っていました。彼女の自己紹介のせいです。私はそれとは正反対の人生なので、いま同じプロジェクトに携わり年齢も近いのに、なぜこんなにも違うのか、狡い。
なぜ狡いと思うかというと、自分ではどうにもならない生まれによる事が多いように聞こえたからです。貧しくはないけどお金はない実家で容姿にも恵まれず、なんなら親にブスといわれてきて我慢と自立(人に頼らないという意味で)を一番にしてきた身としては、このような人は羨ましくて仕方ないのです。
わかんなーいって言えば誰かが助けてくれると思うな10伝えたいなら10を言葉にしろ貴方がすごーいっていわれるのは自分でやった事が全てじゃないんだよ。おそらくこんなことを無意識で考えていました。

これらは全部自分で自分に科していることでもあります。助けてほしい時には助けをもらえるように相手の利益や伝え方を考えなければならない自分の伝えたいことは筋道立てて相手にわかりやすいように話さなければならない自分の努力でやったことじゃなければ自慢に思ってはいけない。こんな感じ。

このプロジェクトが終わった今でも、当時のプロジェクトチームで連絡用に使っていたプライベートグループがあるのですが、そこに日々クラブに行ったりホームパーティーしたり次は〇〇に移住!とか書いたり、セレブのインスタかバブル期の人かなと思われる投稿。なにも文章がなく写真だけ送ってくるのを見ると、やっぱりこの人苦手ってなります。
彼女の承認欲求を満たすために利用されたくないと考えてしまうことと、この写真に対してなんでもいいからコメントが欲しいだけなのか、写真だけで何かを察しろということなのか目的が分からず共感しにくい。苦手なのはこの先も変わらないだろうな。

期待と現実。そうではなくで、過去と現在

こんばんは、まぬえらです。

転職やそれに伴う引越しで頭いっぱいなのをいいことに、書くということを回避していました。
もともと文章を書くことは得意ではないし、特に自分の考えを筋道立てて書くことは苦手中の苦手なのでブログ回避は不思議なことではありません。

現在の仕事に変えて、見知らぬ土地に引っ越してきてそれは自分でそう決めたことなのだけど、「こんなはずじゃなかった」とまではいかないまでも、「こうなるはずだったのに、なんか違う」という日常を送っています。

例えばどんなことかというと、

友達がいない、だから週末は常に一人、同僚とも微妙な距離で仕事終わりも一人で直帰、部屋が理想通りではない、思ったよりも市内の移動が大変(車がないときつい)、英語が通じない、仕事で電話がある(自分は電話嫌い)。

理想は会社近くの中心部で高層階の部屋を予算内で借りて、ハウスメイトと住んでいてリビングには中の良い同僚などが日々訪問して賑やかで、日本の友人とビデオチャットで一緒に話したり、休みの日にはみんなで観光する生活。

になるはずだったのに、現実は正反対で寝る前や朝起きた時の魔の時間帯にはネガティブな思いが湧き上がってきます。

それでも自分成長したなーと思えることがあってそれは、ネガティブになってそこで終わらないことです。理想通りにいかなくてはがっかりするのは当然なんだけど、無理矢理いまの自分をそこに持っていったり、期待通りにならないことで自分を責めたりしない。これはうちの母親がやりそうなことでやんす。なので、自責感情が出てきたらすぐにやめるようにしました。
そして期待していたことではなく過去といまの現状を比較してみてます。例えば自分がいままで毎日毎日嫌だったことは、
とにかく通勤電車、車内のジジイと汚いリーマン、通勤途中の立ち食い蕎麦屋さんの出汁の匂い(苦手)、いつかかってくるかわからない客との電話&何かというと掛けなければならない客への電話、人混み、家も会社も何もかも狭い、街並みが変、会社の風土、食事、冬の寒さと乾燥、関東平野の強風、エスカレーターで歩く習慣。

これが全部なくなった今の環境はかなり自分にとっていいことなのです。もちろん今は今で会社への不満やこのエリアの常識みたいなものに対して否定的な思いを持っていたりしますが、それでも今の方がいい。

通勤はあるけどタクシーかバスだし乗換えや激混みな状態は皆無。寝起きの頭で街にいる人見たことないし脂臭いとか汗臭い人にも出会ってない。鰹出汁なんてない地域だし、仕事で電話もあるけど毎日何件も何時間も話すなんてことはない、一人当たりのスペースも十分だし、部屋も会社もどこもかしこも広い、景色は色々あるがそれでも視線を移せば伝統的な建築物や自然が目に入る。気候もいいし何よりエスカレーターは右でも左でもずっと止まってて良いのが良い!あと会社はペーパーレスだし、社内に舌打ちしたりいつもイライラしてるお姉さんとか、無駄にうろうろして世間話してくるるおじいちゃんとかいないし。
住居のメンテナンスとかまだ残っている日本の書類関係とかの不安はあったりするが、それでも日常的なストレスは激減している。

期待していたキラキラ生活じゃないのだけど、友達がいなくてあんまり英語が通じないこと以外にストレスないんですよね。キラキラ生活じゃなくて友達がいないのは今までも同じなので、今まで通りの生活スタイルで全体的に楽になったってことなんだな。他の諸外国から来ている同僚がみなさんコミュニケーションが上手くて、どんどんいろんな人と仲良くなって、年長で陰キャな自分が取り残されている感じがしてネガティブになっちゃうんですよね。

でもそれはそれでいままでもこれからも取り組む自分の課題であって、環境を変えたらこうなる(理想通りになる)はずなのに、なっていないのはお前(自分)がオカシイからだ!と責めるようなことではないんですね。わかってはいるんだけどついついそう考えてしまうという。。そのためには少しずつでも進歩するしかないですよね。というわけで次の休みに同僚を遊びに誘ってみました。

もうこれだけで1ヶ月分の社交性つかい切ったよ!!!

愛されて育った人ってすごいな

こんばんは、まぬえらです

知り合いの男性にアマプラで観て面白かった番組を勧めたら見てくれたんだけど、その感想が「ツマンナカッタ」だった。
観たんだけど、僕的にはつまんなかったかな。なんかよくわからなかった、だって。

荒れ狂う脳内を抑えつつ、そうなんだー、残念っす。と返したけどめちゃくちゃ傷ついた

なんで傷ついたかっていうと、別にこの男のことが好きで嗜好が合わなかったから、とかではなくて、自分が好きなものを拒否されると自分自身がこの社会から拒否された気持ちになるからだ

家に帰って1人になって、アイツつまらないとかいうなんて無神経な奴だなって苛立っていた

こいつは本人の話を聞く限りめちゃくちゃ家族に愛されてて、家を出てもみんな仲が良くて、誕生日にはお祝いし合うような育ちをしている。私の知らない苦労はたくさんあっただろうけど、愛されてんなーっていうのがとてもよくわかるエピソードをいくつも聞いてきた

そういう人だから、自分の感想を率直にいうことに戸惑いがないんだろうと思う。相手が傷つくなんて想像もしないんだ。だって作品の感想を言うだけだから、相手の嗜好を否定するわけではないし、ましてや相手自信を否定するわけではない。

だから、感想を言うことは単なる自己開示の一つでお互いを知る手段でもあるだけだ
勝手にこっちが傷ついた
愛されて育った人はみんなこんなに私から見ると無神経かんじなんかなー?って思ってググってみた


リアルの知り合いにここまで愛されてる感満載の人がいないのと、いたとしても自覚ないだろうし聞き辛い。
そうしたら数年前の記事でそういう人を紹介したものがあって、それによると愛されて育ったその人には世の中はお花畑みたいに幸せな世界に見えているらしい。
どのブログだったかブクマするのを忘れてしまったため、紹介できないのが残念ですがとにかく思ったのは、

へぇー、世の中お花畑に見えてるんだ⁉︎
訳わかんねー

世の中は基本的に仮面を被った敵だらけに見えてる自分とはまったく違うな
もう、びっくりしました
生き物としての種が違う感じ

この本に書いてあったことを実感した、本当に。同じ生き物だと思ってはいけんな

こういう風に生きられたらいいなーとは思うけど。毎日楽しいだろうな
特別に毎日エキサイトしなくても幸せだと無自覚に感じて生きていけそうだ。常に不安を感じて、なんかいいことないかなって思う人生とは違う。うん、やっぱり違う

あと薄々感じてたことは、軽くいいなと思ったことがあってこの人も、前に通っていたカウンセラーも望んで新しいことをしに行こうとはしない。消極的とかではなく、彼らはそれを必要としていない。
音楽もいつも同じジャンル、趣味も昔から好きなことを続ける。たまたま新しい曲を聴いたりして気に入れば世界が広がる、誰かと一緒に何かを始めて面白ければそちらもやってみる、仕事で必要だと思ったから勉強する。新しいことを始めるにしても必然性強いように思う。全て繋がってる。

自分の世界が少なくとも本人にとっては完璧で完成されていると感じてるんじゃないのかな。別にわざわざ新しい習い事を探したりする必要がない。自分は満足していて幸せだと実感している。

もしそうならわたしにはわからない感覚だ。自分は一見全てが点。繋がっていない。

実際には満たされない自分の心のような理由で繋がってるんだけど、傍目には手当たり次第に色々やってるように見える。自分からもそう見えている。
その自覚のなさが自信のなさにつながっていくんだよな。ACとそうでない人の違いを実感した彼の一言でした。ほんとありがとうって感じ

【心のセルフケア】あの当時のうちのBBAの思考を理解してみたい【年末年始】

こんばんは、まぬえらです。明けましておめでとうございます。

昨年は(も)のろのろと気が向いたときに更新するだけのブログでしたが、今年もそんな感じでのんびりアップしていきたいと思います。ただ引っ越しを考えていたりしていますので、ブログのテーマも変わってくるかもしれないなと思います。

昨年から考えていたんですが、年始の休みの間にうちの母親がなんであんなんだったんだろうと考えてみることにしました。

2022の画像
DreamDigitalArtistによるPixabayからの画像

うちの母の「あんなん」と思う言動がいくつもあるので、今自分が困っている自分の性質からネタを引っ張ってきました。
それは電話。わたしの今の悩みは数あるが仕事で嫌なことは電話で話すことです。電話がこわいとか相手の言っていることがわからないとかではなく、ただ電話自体が嫌。スマホでも固定でも関係ありません。

取引先や客じゃなくても、社内の人からの内線でも嫌です。そもそもの原因は自分の世界観(世間は敵)にあると思っているのですが、それでも電話に特化して言うと昔母から言われていたことを思い出します。

昔は携帯電話なんてなかったので、友達の家に電話をすることは度々ありました。
そんな時あの人は

声が暗い!もっと感じよく喋りなさいよ!もっとちゃんとハキハキ話しなさいよ!感じ悪いわね!

わたしが電話を切るとすぐにそんな事を毎回言っていました。それが私の電話キライに拍車をかけていると思っています。

なぜそんなこと言ったんだろう。

年初めはこの時のあのクソババア(母親)の心理を想像してみました。


小学生の子供に、電話での話し方にダメ出しをする。本人はダメ出しのつもりはなかったんでしょうね、いわゆる指導・教育のつもりだったのかもしれません。
するとそれは

  • そういう風になって欲しかったという期待か
  • 子供の対応で親がダメだと思われたくないというプライドや保身からか

と最初は思っていたけど、よく考えるとないかなとも思います。

本気でそうなって欲しいと思うならもっと先に手を出すでしょう。過干渉というやつですね。
シナリオつくったり、こういう風に言いなさいとか、リハさせたりするのかと思うのです。

もちろんそれも狂ってると思いますけど。

もしかしたら、なんか知らんけどわたし(長女)のことが気に入らなかったのかもしれない、と考えたらしっくり来ました。
なんかイラッときてたんでしょうね。やることなすこと気に入らない、みたいな

分かります、そういうの。自分もそういうことありましたから。なんなら今でもたまにありますから。
強者によるいじめでもみる構図ですね。何も教えずにやらせて、いかにできないかを論う。

それは

  • 自分が優位に立ちたい
  • 自分の方が優れている、価値がある
  • つまり自分は無価値な人間じゃない

と自分自身で確認するために弱者を貶す、という事なんでしょうか。

もしかすると自分の子供をコントロールしやすくするためという目的もあったかもしれません。どれも無意識だと思いますけど。


それにしてもなんでわたし嫌われてんだろう?なぜわたしだったんだろう。そちらの方が気になります。
子供だった自分に落ち度があるとは思わないけど、どんな思考回路で自分が母親のターゲットになったのか知りたい。無意識のことだから知ることなんてできないんだけど、自分なりにきっとこうだったんだろうという納得できる理由は欲しいです。
わたしには妹もいるんですが、年もそう変わらないのに何故かわたしだけがタゲられた。

わたしが思うのはただ私が先に長子だったからなのではと思います。子供はワガママですからね。甘えるしなんでもかんでも聞いてくる。それでいいはずなんですが、子供の頃にそれができなかった彼女には許せなかったのかと。母には姉がいますが彼女は結構天真爛漫に自由に育ったようです。で、母はそうではなかった。家事情があり家事なんかを自分でやっていたようですから、甘えるなんて選択肢はなかったでしょうね。

だから余計に自分の長子が子供らしくいることが羨ましい、疎ましい、許せない。でもそれを意識下で認めないからなんかムカついてたのではないかと考えました。なんと勝手な💢

同情はしますが、私にもこういうところがあり、今この年で必死で思考の軌道修正をかけているところなので、「お母さんもかわいそうだったんだじゃあ仕方ないね」なんて思いませんよ。腹立つしかない。

少しでも理解しようと試みてやっぱりあの人が勝手だったんだなとあらためて思いました。良かった

【自己評価】まわりは敵だらけという世界観【振返り】

こんばんは、まぬえらです

皆さんの世界観は人は優しく助けてくれるというものでしょうか。

私のみている世界では基本的に周りの人間は敵、または敵になりうる存在です

親しい人でもきっかけが有れば敵になると思っています。ACの人は程度の差はあれど、みんなそうなんじゃないでしょうか。だから執着したり顔色を伺ったりする。

なぜそういう価値観世界観になってしまったのか、自分の経験を振り返りつつ考えてみたいと思います。

  1. 幼い頃に安心できる場所がなかった
  2. 学校でイジメにあっていた
  3. トラウマになるほど傷ついた経験をした
  4. 大人から揶揄われたりバカにされることがあった
  5. 物心がつく前の経験


1. 幼い頃に安心できる場所がなかった

これはなにも家庭で肉体的な虐待を受けていたとかでなくても、親が主観をぶつけてきたり、押し付けたりするような環境でも当てはまると思います。自分の考えを持つことを許されないということなので、心が固まっていきます。特に子供の意見を否定して親の価値観を押し付けてくるタイプだと無意識下で親は自分を傷つける敵だと認識されます。

うちの母親は私に、例えばドラマを見ていてだれかいいと思うか聞いてから、私の答えに対して「なんでそんなのがいいの、〇〇の方がいいにいまってんでしょ⁉︎」っていうタイプでした。相手子供です、すごいです。

2.学校でイジメにあっていた

周りが的になる世界観のキッカケとしてあることかと思います。ただ家庭環境とか学校のサポート、友人関係などで変わっていくのかなとは思います。

私はあからさまにいじめられてはいませんでしたが、軽い悪口をいわれてたり、誘われなかったり、嘘つかれたりはありました。
そこで先生も我関せず、だったことも大きかったと思います。

3.トラウマになるほど傷ついた経験をした

覚えている限りはそういうことはない、と思っていたのですがこういうことって自分では気付いていなかったりするんですよね。
私の場合は大人に勝手に胸を揉まれたり、通学でなんども痴漢にあったり(そして誰も助けてくれない)、そういうことが当たるのだと思います。自分の尊厳を踏み躙られた経験ですね。

そのため今でも外を歩くときには”やるかやられるか”くらいの戦闘モードで歩いていると思います。繰り返しますが、自覚はありません。

4. 大人から揶揄われたりバカにされることが多かった

わたしが忘れられないのが、父親の友人にうちの親と一緒になってバカにされたことです。親が一緒になってバカにしてきたということが、一番傷ついた理由なんだと思います。

でも身内でもなんでもない、こっちは親の友達だから気を遣っている思春期が、癖っ毛の頭をボサボサとか言って嗤われたら、深く傷つくでしょう。だって直せないんだもん、癖毛だから。直すすべも知らないし、癖が出ないように髪を伸ばしたくても伸ばさせてもらえない家庭だったのも追い討ちをかけていたとおもいますね。
親の言う通りにしたら親にも一緒になって嗤われる。

5. 物心がつく前の経験

これは誰かに聞いてみないとわからないですが、私の場合は「まぬえらは静かな子だった」と良く言われていました。静かな子だったのではなくて、静かにしないといけなかった子だったのではないかと推測しています。

一番古い記憶が、幼稚園の抽選に落ちた母親に八つ当たりされたものなので、その前に似た様なことがあっても不思議じゃないですね。

これは1番目の項目と同じになりますが、気づいたときには身近な社会(家庭)が安心できる場所にはなっていなかったのでしょう。


つらつらと記憶を探りつつ書き連ねてみましたが、小さい頃に接してきた社会で傷つけられた経験があると、意識しなくともこの社会には敵がいっぱいいるんだ、という世界観になってしまうのでしょう。
そんなのは無力だった子供の頃の経験であって、今のあなたは怯える必要も身構える必要もない。なぜなら大人なんだから。という意見もあると思います。
わたしも散々カウンセラーさんに言われました(そのカウンセラーは話に聞く限り実家が太く家族愛の強い強者男性なので、私の様な者の恐れを理解するのが無理だったのかもしれません)


でも、こういうことってうちの家族が特別悪いわけではなくてこういう家庭はたくさんあるのだと思います。そして私が特別戦闘モードで生きているわけでもなく、そういう中で育って私の様な世界観を持っている人もこの世にはたくさんいるのではないかと思います。

そんな世の中で世界は敵じゃない、今の自分は1人で生きていける大人だから大丈夫、って思える方が特別な気がしますよ。だから、ここまで考えて私が思ったのはまわりは敵だらけという世界観を変えなくてもいいじゃないかということです。
まわりは敵だらけだけど、この人は例外という人がちょっとずつ増えていけばなんか気持ちが強くなれる気がします。

じゃあ誰が例外になりうるのかというのは、相手との関係の中でデータを蓄積していくしかないかと思います。だからやっぱり客観視スキルがもっと必要になるんですねー。


【あらすじなし】映画:ねじれた家を観た【殴りがき感想】

ネトフリにクリスティのねじれた家があったので観てみた

クリスティの作品でノンシリーズはほぼ読んだことがないので、これも多分読んでない。読んでいたとしても全然ピンとこないし予備知識ゼロでした。

面白かったけどね

 

アガサ・クリスティー ねじれた家(字幕版)

アガサ・クリスティー ねじれた家(字幕版)

 

はじめに書いておくと、映画としては情報足りなくてついていけなかったり納得感がすくないことがあった。私みたいにすぐに原作ネタバレを見ちゃう人か、原作知ってる人じゃないと「???」な部分が多いかもしれないです。それでもわたしは面白かったけど。ミステリっていうより泥沼お家騒動です。

面白かった理由として、とにかくグレン・クローズがめちゃくちゃ格好良くて最高。彼女はキアヌが出てた「危険な情事」のメイン人物の人だね。どっかで見たことあるなとは思ってたけど、作品も名前も思い出せずググりました。

 

 

で、ストーリーについての感想(あらすじとかは書きません)。真犯人は意外な人物でものすごく驚いたけど、確かにこれはノンシリーズじゃなきゃ成り立たない。一応探偵役がいるんだけど「名探偵」ではないのです。ポワロやマープルがいたらきっと犯人の本質にすぐに気付いて即解決になっていた事件の様に思う。

仮に即解決、とはいかなくてもあのラストにはならなさそう。

まずポワロでもマープルでも、あんまり読んだことないけどクインでも、絶対ナニーとコックには話を聞いていたはずだし、弁護士やロジャー(被害者の息子で一つ会社を任されてる)の秘書あたりにも根掘り葉掘り聞いていたと思う。家の人たちも1人くらいはうまく手名付けて疑惑が湧くような言動を引っ張り出して、早々にターゲット絞れたんではないかなー、と。名探偵達ならこうしたかもを想像しながら見るのも面白い。

もしかして原作ではチャールズも聞いていたりするのだろうか?わからんけど関係者から有益な情報は引き出せていなかったようにみえるな。実はちょいちょい確信というか真実をもらしている人物がいたりするんだけど、なんかこの探偵役は掘り下げないんだわ。クリスティの探偵シリーズものを読んでる人なら彼のやり方にやきもきすること間違いない。

 

 

この話の犯人のサイコパスぷりがすごいです。平然としとる。ちょっと変な人物なんだけど、周りがみんな変だし、この人もこういう人なんかなーって感じだけどサイコでした…。いや、サイコパスではないかもしれないな。むしろ人をコロして達成感を得て、自分をほめてそう。善悪の判断がおかしい。

後述のジョセフィンがいった通り「犯人は意外な人物」でした。

 

主人公で探偵役のチャールズ・ヘイワードさん。探偵としての活躍はほとんどなかった(あっても最後のアレを見つけるところくらいかな)って感じなんだけど。

ソフィア〜犯人疑惑のある1人。被害者の孫で、自分の依頼人で、元カノ〜に未練アリアリな風で、彼女にアプローチして拒まれたりしててどーしょーもねえ若造。それも彼女から情報を得るためのアクションかと思いきやそうでもないっていう。でも本人は至って真面目に探偵してるつもりの人です。

 

でもそんな探偵としては凡人な彼だけどメンタルは鬼強で、そんなメンタルのおかげか行動力がすごい。ズカズカと人の家で好き放題に調べ回る。

ぎりぎりまで犯人に振り回された凡探偵の行動力のおかげで、これ以上の犠牲が出なかったともいえる。もうちょっと遅かったら犯人がアレする前にもう1人犠牲者が出てもおかしくなかった。犯人が置かれている状況とサイコっぷりを考えたら、やるでしょ。

凡探偵でも行動力がなかったらやっぱり間に合わなかったかも。ターゲットにされそうな明確はなかったと思うけど、あの人はきっとやられていた。

 

逆に相手が名探偵だったら、序盤から犯人も余計な言動をしなかったかもしれない。(それでも怪しいところを聞き出しちゃうのが、クリスティの描く名探偵なんだけど)

うまくできてる。こういう登場人物だから、こういう経緯を辿って、あーゆー結末になるんだっていうのがしっくりくる作品だった。原作とは多少相違があるようだけど人物描写はおんなじではないかな。

クリスティ先生すごい最高、スキ。

 

 

あとあの家の人たちがみんな性格が悪くて最高。でもみんな傷ついてて、それを自分で解決しようとしないで誰かになんとかしてほしいと思ってる。自分の人生がうまくいかないのは、誰か他の人のせいだと思ってる。実際には相当恵まれた人たちなんだけど。

でもその一家の中でも自分で決めて進んでいく人たちもいて、それがイーディア伯母さんとソフィアとジョセフィン。

イーディアは被害者の最初の妻の姉だから、被害者のレオニディスの血筋じゃなくて、その妻デ・ハヴィランド家の出身。この役をグレン・クローズが演じててとにかく格好いい。格好良すぎるんだぜ。猟銃?ぶっ放したり、ぎゃぎゃぎゃーっと車運転したりする。なんなら庭仕事も自分でするこの家を取り仕切ってるすげえ人。でも容疑者のブレンダを心配したりしてこの家の中では厳しく優しい人、そして怪しさ満点の行動をする。

ソフィアは祖父(被害者)からは見た目はデ・ハヴィランドだけど血はレオニディスって評されてたらしい。

ジョセフィンの性格はは映画では言及されてなかったと思うけど、原作ではデ・ハヴィランドのあの人に思考が似てるっていう設定のよう。

なんかさ、レオニディスの人たちはまあまあ拗らせてて、メンヘラってて考え方もやべえ奴らばっかりなんだけど、なんか基準は普通の人なんだよね。チャールズがこの家に最初にきた時にソフィアが「この家の人たちはoddだから」っていってるんだけど、そうでもないというか。性格悪いし神経症的だけど程度の問題なのよ。ハヴィランドの方が結構過激というか、え?そんなことでそれやっちゃうの?って気がしました。

ねじれた家ってタイトルは登場人物の性質だけじゃなくて、この血筋、お家柄というかお家の性質にも当てはまるなぁ。

ちなみにレオニディスはソフィアの祖父がビジネスに成功した成り上がりでハヴィランドは富豪の伯爵家(だったっけ?)っていう設定です。価値観が違う、物事の優先順位が違う。

 

わたしはこの作品は面白かったなぁ。ミステリとしてはいまひとつ冗長な気がするけど、ノンシリーズならではの面白さでした。昼ドラサスペンスって感じね

 

 

あとユースタスくんのおかげでscrewという単語の新しい使い方を覚えました。使うことはないと思うが。