ほいほいそうこ

70年代生まれ、アダルトチルドレン。メンタルこどものまま中年になりました

自分のことを知る

こんばんは、まぬえらです
前は自分がどんな人間か、どういう人なのかを知るにはどうしたらいいのでしょうか。

わたしは反抗期がなく思春期にも親の言いなりで育ち自分と向き合うことなく大人になりました。そのため、自分自身というものがよく分からない自我が確立していない状態です。
自分の生き方の指針が無いため、常になんとなく不安でそれをなんとかしたいと思っていました。

  • 人との違いが自分のコア
  • 他人と比較して落ち込む
  • 負の感情こそ考えるチャンス
  • 違いに優劣をつけう必要はない


人と違うところが自分の個性なんだといわれたこともありました。よくいわれることですね。
自己紹介をする時に自分は人間ですとはいわない。生まれも育ちもおそらく日本だろうと思う集団の中では、あえてわたしは日本人です、とはいわない。

それは所属の説明であって自分がどんな人間かの説明ではないという意見もあると思います。ですが社会的な立場なども含めて総合的にみて自分を語れるのだと思います。

こ‐せい【個性】 ①(individuality)個人に具わり、他の人とはちがう、その個人にしかない性格・性質。「―を伸ばす」 ②個物または個体に特有な特徴あるいは性格。

https://sakura-paris.org/dict/

アイデンティティー[identity]  〘名〙  ❶ 自己が他と区別されて、ほかならぬ自分であると感じられるときの、その感覚や意識を言う語。自己同一性。自我同一性。 「━の喪失」 ❷ 組織体で、それを他と区別し特徴づけるもの。独自性。 「企業の━」

https://sakura-paris.org/dict/


人と比較して落ち込む


でもそこにはワナがあって、自分のイヤなところ、自分の至らないところは個性として認識しない傾向があるということ。自分が思い描く個性というのは、(自分が考える)人から見て良しとされること、なんなら羨ましがられることだと無意識に定義してしまっているところがあります。

自分探しを始めて他人と比較しては自分がみすぼらしく出来損ないだと自己卑下が進むばかり。もしくは反対に、自分が好きなこと好きなものを見つけようと、いろんなことに手をつけたり旅に出たりして。

だけどそれも結局、(自分が考える)人から羨ましがられそうな物事で本当にやりたいことではなかったりして、本当の欲求ではないから続けられない。そうして自分を責めてはやっぱり自己嫌悪&自己卑下におちいるのでした。

負の感情こそ考えるチャンス

 
 いまでも一体自分はなんなんだろうと不安になってばかりですが、四年前カウンセリングを始めた頃の殻が厚くて中身は空っぽというような感覚はなくなりました。

なんでそう変わったのかというと、自分の負の感情に向き合うことをする様になったからです。別に自分の個性、自分の価値観にフォーカスしてカウンセリングを受けていたわけではありません。1番最初にトライアルで行った時にはそんなことをカウンセラーにつたえていましたが、毎回のカウンセリングでそんな話をしていたわけではなく、ただただ悩みや嫌だったことを話し、その時の感情と思考を解す作業をやっていっただけです。


自分の場合はカウンセラーが自分とは逆の考え方をすることが多く、そういう人と話すのを繰り返すことで自分のことが少しずつ見えるようになってきました。


相手はカウンセラーじゃなくてもいいじゃんとも思うのですが、相手の傾聴や共感のスキルが低いと違う価値観を否定しがちです。するとわたしのように自尊心が底辺の人間は、「否定された。失礼なやつだな」ではなく、「否定された。わたしが間違ってるんだな凹」となってしまうので、やはり専門家の手を借りて良かったと思っています。

 
 そういった専門家に頼ることなくても、負の感情に向き合うことは自分1人でもできます。むしろ、それは自分1人でしかできない。なんでそんな感情が湧いてくるのかは自分の思考回路に基づいていて、その思考は自分の価値観から生まれてくる。カウンセラーは聞き出したり方向性を示したりしてくれるけど、答えは自分で出すしかありません。


ポジティブな感情でも同じことなんだけど、掘り下げていくとその下に自分が気づきたくない(親から)刷り込まれた価値観があったりするので、思考停止や正当化に陥りやすいと思ってます。

〇〇に留学しました。いろんな国の学生と一緒に過ごして楽しい、一生懸命勉強して自分を誇りに思う。→なぜ楽しいと思うのか。
さまざまな文化や価値観を知れる。自分の世界が広くなる感じがする。→日本にもいろんな境遇の人がいるけど、彼らとコミュニケーションを取るのとなにが違うのか。
… → 外国人に混じって英語で喋っていることが格好いい。人に自慢できる。そういう風になって欲しい、という母親の価値観と期待に応えようとしていた。というのが根底にあったものです。


でもここまで来られなかったり、ここまで考えが至ってもそれまでの自分の選択を全否定するような気がして中々認めづらいです。 
この例はかなり実際の思考を端折りましたが、わたしは高校受験から前職の就職までの選択を掘り下げていったら、全て親に反対されないかどうか、で選択していてかなり泣きました。悔しさで。

違いに優劣をつける必要はない


 1つ1つの自分のもつ特徴に注目すると、「ああ、自分はこんなこともできない」「こんなことは自分以外にもできる人は山ほどいるし」と自分自身を卑下することになりがちです。わたしはそうです。
でも、総合的にみると良いと思えることもイヤだなと思うこともあって、自分を知れば知るほど唯一無二の存在であると実感する様になるのではと思うんです。 超絶長い条件式を作るようなイメージですね。

自分が人に知られたくないこととか人から馬鹿にされるかも、なんていう嗜好もその原料に過ぎない。いちいちジャッジする必要はありません。重要なのはそれを自分を作る材料にまで精製すること。なんで知られたくないと思うのか、馬鹿にされると考えるのか、を突き詰めることです。

いや、違うかも。
表面的な思考(〇〇が好きなんて馬鹿にされるかも)も、その下の思考(大人が〇〇を好むなんてダメだ)も、その根っこの価値観(エイジズムや人を馬鹿にする世界観)も、全部が自分を示す条件式に入るのかも知れないです。そしてその中身はちょくちょく変わるし増えたりするので、その中の1つだと思えば人との違いに優劣をつける意味ってないです。


 でもそれと自分を表現することは別。言葉でもそれ以外の方法でも。無限にある自分を作る特徴からTPOに合わせて最適と思うものを表に出す。

趣味の集まりでの自己紹介と、企業面接での自己紹介で言うことはきっと違う。もしくは同じことでも言い方が違うでしょう。

もしかしたらそこでいうことは、「そんな人他にも沢山いるじゃん」と思われるようなことかもしれないです。それでもまだ伝えていない自分の側面や価値観を自分自身は知っているわけですから、側から見てなんの特徴もないつまらない人間に見えたとしても、不安になることはあまりないんでしょう。


人との違いを表現するのは、見せ方、表現力といった技術の問題で自分自身がつまらない訳じゃないですよね。そこなところもわたしが誤解していた部分です。また、どんなに表現力を磨いても表に出す材料が足りなければ、やっぱり思うように表現はできないので、いちいち良し悪しをジャッジすることなく、どんどん自分の考え方や価値観を知ることで自分はこんな人ですよ、と語れる自分になっていくのだと思います。