ほいほいそうこ

70年代生まれ、アダルトチルドレン。メンタルこどものまま中年になりました

ひとりがさびしいのは1人でいることが原因ではなかった

こんにちは、まぬえらです。


突然ですがわたしには本当の友達がいません。友達はいるけどいない、なんとも説明が難しい。


まず友達と呼べる人の数が少ない。ほんとに数人。なんなら知り合い程度の人も無理やり友達ってことにしている節がある。
それくらい少ない。

少ないこと自体は問題ではなく、それで自分が幸せに生きられるならいいのだけど、わたしの場合はそこで寂しさを感じてしまう。


でも1人でいることは苦手じゃない、むしろ好きだ。それどころか友達と毎週会うとかなったら疲れて嫌になってしまうと思う。でも時々、少なくない頻度で日々のちょっとした思ったことを誰かに言いたい、聞いて欲しいと強く思う。
加えて特に何もなくてもさみしーなって思うこともある。


家族とほぼ連絡を取らない(会うと2時間後くらいに嫌悪感がわいてきたり、帰ることには自尊心が底辺になっていたりするため、会うことは回避している)ので友達とも合わなかったりすると人とのつながりが感じられず、孤独を感じるのかな、ともおもいました。

が、コロナ禍でも毎日出勤して社会活動を実感しているのにそれはおかしい気がする。
1人がすきなのに、1人じゃ寂しい。この矛盾した考えの理由をもうすこし掘り下げる。

  • 友達とはなんだ
  • 友達との付き合い方
  • 寂しさを感じる理由


友達とはなんだ


そもそも自分にとってどういう人が友達なんだろうと考える。その前に、一般的にはどうなのか。さらっと検索してみました。
辞書にはこのように書かれています

互いに心を許し合って、対等に交わっている人。一緒に遊んだりしゃべったりする親しい人。友人。朋友(ほうゆう)。友。「友達になる」「遊び友達」「飲み友達」

コトバンク


ふーん

互いにかどうかはともかく、心を許すって難しい。自分には超ハードルが高い気がするが、自分のなかでの友達の定義もこれに近いものだと思う。


遊び友達や飲み友達は「友達」とはつくけど、わたしの中では友達とはかなり違う。
特定の場でしか会わなくても、打ち解けることができるケースもあれば、その場での仮面のまま付き合いが続くケースもある。
わたしの遊び友達は後者だ。いつまでも気が抜けない相手ばかりである。


友達との付き合い方


多分、わたしの辞書では「特に何もなくてもただだらだらと喋ったり、本音で話せる相手」が友達なんだと思う。
なんでもというところがミソで、実際の自分にはなんでも話せる相手がいない。だから友達はいるが、本当の友達がいないってことになる。

脱線するが、私の世界観では周りは基本敵だらけなので、友達にみえる相手であってもなんでも話せるわけではない。

話したら嫌われる、軽蔑されるって思ってる。ここでいうなんでもというのは、恋愛ごとだったり好きなことの話。私は恋愛下手だし(友達がいないくらいなので当たり前だけど)、オタクというほどハマれないけどアニメやマンガもすき。場合によっては腐もOKな人です。


でもそれをリアルな友人知人には話せない。腐趣味はともかく、アニメ漫画はダメといわれて育っているのでこんなのがすきだと知られたら恥ずかしいと思ってしまう


要は自分の中での友達の定義と、実際の友達との間に乖離がある気がするんです。


本当は気をつかわなくていい相手というのが、わたしにとっての友達なんだろうが、友達ってのはなんでも話せて頻繁に会うもんなんだという思い込みがあって、それに当てはまる人がいないから自分には友達がいないと思っているらしい。

さらに基本的に気を遣いぃなので、話をしたい時にすぐ連絡したりすることをとても躊躇する。そして結果、やらない。
そうして勝手に疎外感を溜めていってるのだとも思う。

じゃあその「友達とは〜」、の思い込みを外せば寂しさは減るのかなと考えてみたけど、どうもそんな感じじゃない。


友達がいるんだ、1人じゃないんだ、なんてわざわざ普段考えることはない。誰かと話したい会いたいと考えることの方が多い。

寂しさを感じる理由


先にも書いたが、自分は仕事で毎日人と会い同僚とは雑談をし、それなりに楽しくやっている。
はずなのに、なんで寂しいと思うんだろうか。

ヒントになったのはある勧誘だった。


前のブログで書いていたけれどいままでプライベートジムに通っていた。
そしてこの度その契約を一旦終了しました。

理由としては海外に行けるようになったら色々と行きたいところがあるので、そのために節約したいというのが一番。
ほかにもスケジュールだったり、予約しずらかったりで変えたいなとは思っていた。
(ちなみにトレーニングは宅トレで続けてはいる)


それでジムの方でも納得してくれて、また機会があればーくらいでしばらく連絡を取っていなかった。
そうしたら先日、夏のキャンペーンやるよって宣伝がてら連絡がきて、”お得になってるし、またまぬえらさん一緒に頑張りませんか。”みたいなことが書いてあった。


個人的にメールをくれたので普通の広告とは違うとはいえ、中身は宣伝&勧誘です。
不思議なのはその連絡をみてなぜか満たされてしまった自分がいたこと。
ちょうど友達とも連絡が途切れていて寂しさを感じていた頃だったが、その気持ちがその時かき消えた。


なんでだろう。
緩いけどふつうに勧誘じゃん、遊びのお誘いじゃないんだよ。こっちが金払うんだよってわかってるのになんかうれしいの。


ここで、あぁ自分は人に必要とされたいんじゃないかなって思い始めた。


我々は、社会はあなたを必要としています=あなたには存在価値があるんですよっていわれたい思われたい。
存在してもいいのだと実感したい。

コレが自分が寂しいと感じる原因なのかと思う。

さびし・い【寂しい・淋しい】 〔形〕[文]さび・し(シク) 本来あった活気や生気が失われて荒涼としていると感じ、物足りなく感じる意。
①もとの活気が失せて荒廃した感じがする。源氏物語末摘花「いといたう荒れわたりて、―・しき所に」
②欲しい対象が欠けていて物足りない。満たされない。源氏物語若菜下「ありし猫をだに得てしがな。思ふこと、語らふべくはあらねど、傍―・しき慰めにもなつけむ」。「口が―・い」
③孤独がひしひしと感じられる。源氏物語槿「とけて寝ぬ寝覚―・しき冬の夜に結ぼほれつる夢のみじかさ」。「ひとり―・く暮らす」
④にぎやかでない。ひっそりとして心細い。源氏物語匂宮「院のうち―・しく人少なになりにけるを」。「―・い夜道」「ふところが―・い」

https://sakura-paris.org/dict/%E5%BA%83%E8%BE%9E%E8%8B%91/content/8042_338



自分がこの世に存在して良い理由が欲しい、から人とつながっていたい。
気を遣いがちだから、頻繁に人と会ったり話をするのは疲れてしまうのに、それでもそれがないと自分が存在しても良いのか不安になる。


自分の不安解消のために人を利用するとか…ちょっとずるいぞ自分。



確かに、全然会わなくても家族とか、長い付き合いの友達とか、いちいち自分と職場以外の連絡先を求められるこの国の行政を考えれば、そういう人とのつながりがないと生活がままならないので、そう意味での不安もある。


でも私の不安はそれではなくて(もちろんそこも不安だが)、自分の存在理由でした。
それを他人に依存しているので、人との連絡が途絶えがちになると急激に不安になり、それを寂しいっていう感情に書き換えている。
本当に共感が欲しいとか体験を共有したいとかっていう時もあるが、そうじゃない時の方が多いのかもしれない。


そうすると私の寂しさ解消のためには、そもそも存在意義を疑ってしまう世界観を壊したいが、自分の足元をしっかりつくることが必要なのだろう。 

残りの人生をかけても解消できるのかって気がしていている。むしろこんなことを考えては、取り組んでを繰り返すことが自分のライフワークになるのかな。