ほいほいそうこ

70年代生まれ、アダルトチルドレン。メンタルこどものまま中年になりました

自分が溜めている怒りと自分が求めている言葉【自己分析】

こんばんは、まぬえらです

ラジオテレホン人生相談が好きなんですが、平日の放送なので聴けることは、まぁ、ないです

ありがたいこと書き起こししてくれているサイトがあるので、もっぱらそのサイトで読んでいます。

色々なテーマの相談があるけれど、わたしが好きなのは母が大人になった子供のことを相談するやつ。それが娘だとなお良い。

相談者が自分は被害者だというように、娘がこんなことした、こうしてくれない、娘のためを思っていってるのに、といまうまく言っていないことを話す。それに対して、回答者がスパッと切ってくれるの気持ちいい。

この切ってくれるというのは、別に相談者をボロカスに言ってボコボコに傷つける、ということではない。子供側の立場や想いを想像して代弁して、お母さんあなた全然娘のことわかってないよ、とそんなことをたいていは言っている。客観的にどうみえているかと、娘の立場を想像した結果の意見を言う。

時には、娘のことやこの状況を分かろうともしてないのになんで被害者ぶってんの?って指摘もする。

因果を紐解いてるだけなのかもしれないし、子供の見方をしているということではないのだろうが、わたしにとっては味方だ。

そういうケースの相談の時に、わたしが回答者を味方だとおもったり、その回答にスカッとするのは何故だろう。

そりゃわたしがやりたかったことだから。実家にいる頃には、なんでお前はダメなんだ、こんなはずじゃなかった的なことを散々言われて毎度傷ついていたんだけど、自分では傷ついていることにすら気がついてなくて、なんで自分はダメなんだろう、と一緒になって自責してた。

でも本当は違うんだよね。言い返したかったの。なんでそんな失礼なこと言うの?あんたがこう言う育て方をしたからわたしはこんな思考回路が出来上がってんだけど、あんたが褒めは0で怒鳴るばかりだから英語の勉強嫌いになったんだよ。

などなど。

この人生相談に母が相談したら~って妄想するのもスカッとする。他の相談者と同じようにバッサリ切られればいい。そう思う。

回答者の方は、ときにその子供の評価を客観的な目線でしたりする。〇〇してX Xして(根拠)、自分なりに頑張ってるじゃないですか(評価)。とか。

だからその妄想の中では、わたしも褒めてもらえている。やっぱりこれも自分が言われたいことだ。言われたかったことでもある。

小学生の頃、外で遊ばず絵を描いて過ごしていると、また絵ばっかり描いて。外で遊んでこい、と怒られる。しかたないから公園に行った。

友達の新しい自転車に試乗させてもらって、転んで、自転車が傷ついて、弁償しろと言われた。

想像してみる、もしあの当時の母が「娘が家で絵ばっかり描いていて外に遊びに行かない。子供なんだから公園で友だちと遊ぶべき。内向的で良くない」みたいなそうだんをしたら。どんな回答をもらうんだろう、と。

自分の好きなことがあって集中できるなんてすごいじゃないかと、想像の中ではそう評価される。内向的なのは悪いことではないのでは?なんて言われればいい。

いかに自分が主観を理想を子供に押し付けて、自分の期待通りにコントロールしようとしていたかを他人から指摘されて愕然とすればいい。あースッキリする。

こんな回答者からの言葉は「自分が言われたかったこと」だったりする。

学校から帰って絵を描いていたら、好きなことに集中できていいと言われたかったし、自分の性格、性質を否定してほしくなかった。

今そんなことを思っても、仕方ないと思われそうだが、自分はこう言われたかったんだなぁと自覚することで当時の傷ついた心を癒すことには繋がらないか。

あの時は、外遊びに行かない自分は内向的で、この社会では劣った価値のない存在だと思い込んでいたが、そんなことはないと認めることにならないだろうか。

ぜひそうであって欲しい。