こんばんは、まぬえらです
わたしは飽きっぽい人間です、と思っています。
昔からいままで続けている趣味ってないですし、専門性も大学での専攻とはちがうし、なんなら最近転職してまた違う業界で働いています。
くわえて、親や周りの人からも、長続きしないとか一つのことをやり遂げられないとかよく言われていました。
なので自分は飽きっぽい性格なのかな、と思っています。
でも自分の経歴をみると、前職は10年くらい勤めてたし、今はやっていない音楽もダイビングもやっぱり10年弱やっていました。
10年やってるってすごくない?と考えたりもするのですが、結果としてそれだけの年月がたったというだけで、続けたという実感がありません。他の人を見て思うのは、掛けた年月よりも、どれだけその趣味や仕事にどハマり出来たかで、十分やった・よく続けたという判断になるのではということです。
よくわからないので意味を調べました
あ・きる【飽きる・厭きる・倦きる】 〔自上一〕 (近世後期頃から江戸で使われ始めた) ①同じことが重なり、この上それを続けるのがいやになる。もう沢山だと思う。いやけがさす。藐姑柳「―・きられた猿中間に預けられ」。「―・きるほど食う」「この話には―・きた」 ②(動詞連用形に付いて)いやになるほど…する。「そんな説教は聞き―・きた」
https://sakura-paris.org/dict/%E5%BA%83%E8%BE%9E%E8%8B%91/content/204_528
同じことをやりすぎてイヤになる
十分にやったから、もういいかな、と思う
飽きるというのはそういうことのようです。
では、わたしの場合はどうなんだろう。そう考えると物事によって違っているような気がします。
いままでやってきたことをやめた理由は以下のような感じです。
職種や業界、専門性に関してだと、
選択してみたものの面白みを感じないやっても上手くできないし、向いていないのかもしれない、と思ってやめる。
10年続けた趣味とかだと、
やっぱり続けてても、自分が理想とする姿に一向に近づかない、思うようにできない。
習って言われた事をしていって上達するならいいけど、自分で活動するほどの熱量はない。そしてつまらなくなってやめる。
なんだか、飽きたというのとは違うようです。
自分が最初に期待したものを手に入れられなくて、続けても手に入らないかもとおもっていやになってやめた。そんな感じです。
やりすぎて飽きた
ではなく、
やっても思うようにできないからやめる。
例えば絵だと:
絵が描けるようになりたい
↓
思うように描けない
↓
練習する
↓
やっぱり思うように描けない
↓
(これが何回か続く)
↓
面白くない
↓
期待していた報酬がない
↓
やめよう
私の思考は多分こんな感じ。
報酬を手に入れるには、一気に全部手に入れようとしないで、小さなお宝=成功や達成を積み重ねること。あとは手段を変えて試すこと。
ではないかと思います。
あとは、この「報酬」にも実はトリックがある。目眩しというか、なぜそれを始めたのかという理由=それをやる目的を自分でも意識していなかったこともあるな、とこの投稿を書いていて思うようになりました。
傍目にはすごく上達していたり、好きだから続けているようにみえてもどこかほかに目的があって、それを達成しないと本人は楽しくないんです。
私の場合はこのケースが結構ある気がしました。本当は褒められるため、仲間・友達が欲しい・周囲に認められたい。承認欲求を満たすためにの選択もあったりしますね。それを自覚して行動すれば良かったのでしょうけど、それを自覚すること自体が何気に難しかったりするんです。承認欲求があること自体を否定したいから。
いずれはこれは十分にやり尽くしたのでもうやらなくて良い!っていう飽きを実感してみたい。